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映画を見ましたが

先日映画を見たのですが、こんなシーンがありました。

男が友達の病室へ見舞いに行きます。友達は車にはねられたのです。男は病人と二人で世間話や身の上の話をします。それは話の筋にとって重要な話です。そのお喋りの間、病人の母親がお茶を淹れます。その所作が丁寧に映されています。

このシーンをどうやって読み物で描くか、考えていました。(私はだいたいどんなものでも文章化してしまう癖がついてしまいました。)ストーリーにとって重要な部分は二人の会話だから、この部分をメインに描くとして、その間のお茶を淹れる母親の所作はどう描けばいいのでしょうか?
会話の途中に母親の話を入れるのは論外です。そこには隙間がありません。会話を途絶えさせてはいけないのです。例えば、二人の会話を一段落で描いて、次の段落で「二人が喋っている間、母親は……」というような感じで描く手を私は考えました。でも、話と関係の無いお茶を淹れる動作を描くとどうしても話の流れが悪くなってしまいます。それに実際は会話をしているのと同じ時間の中でお茶も淹れられているのですから、一度時間を戻してまた描くというのはどうも上手くない気がします。シンプルに会話が終わったところでお茶を出させて、描かないという手が一番いいような気がします。でも、これは描きたいものを描けていないわけだから、やはりまずい。

映画では本当にシンプルな方法なのですが、読み物でやってみようと考えると、なかなか難しいです。先日メッセージいただいたREさんのシナリオをプレイしたときもそうでした。シナリオにはカードを使った演出があるのですが、あれを文章でやろうとすると、はっきり言ってできません。視覚的に分かりやすい効果を文章でやろうとするのは難しい。

たぶん、文章に頼った読み物を作るなら、情報を同時に感覚的に伝えることができる演出とは違うやり方を考える必要があると思います。

あ、今、いい方法を思いつきました。

帰りの車を運転している中で(そんなシーンは映画ではありませんでしたが)お茶を淹れている母親の姿を男が思い出す。描写。そして「何故こんなことを思い出したのだろう」と首をひねる。あるいは赤信号で止まっていたのが青に変わったので、アクセルを踏んだという描写の内容に視点をすり替える。

……ううむ。あんまり変わらない。

ところで私は最近スランプです。上手く書けないし気力も枯渇気味。……ううむ。
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コメント

非公開コメント

お初にお目にかかりまして、jimさんのいちファンでございます。
議題に興味が沸騰したので、首を突っ込んでみたくなりました。

対話のスキマに、障害物にならないよう場景を加える。
工夫が要りそうですよね。

問いを見て思い浮かんだのは、二人の会話に対して、母親のお茶を入れる動作に「意味」を持たせたら……、というものでした。二人が喋ったことに対して、母親は「お茶を入れる動作」で反応するという。

言葉に出さなくても、その人の感情は「表情」「手の動き」「目線」「姿勢」など、全身が雄弁に語ることがありますよね。その「身じろぎ」を描写することで、人物の感情を代弁する。

ようするに、母親が二人の会話を聞いて、それに対する情動を「お茶を淹れる動作」で代弁するという意味をもたせ、同時に「お茶を淹れる」という場景描写を成立させられないかな、という感じです。「こぼした」「手が止まった」「急須(?)がふるえた」……とか。あるいは、お茶を入れる所作そのものを、二人の会話の「つなぎ」として象徴的に描写してみる(湯を切る⇔会話の間)など。

これなら、情景を背にした対話も作れるんじゃないかな……、と思ったんですが、これは議題の条件を満たしているの?と自分に突っ込みを喰らわせたくなりました。くらえ!シャイニング延髄斬り!(みぞおちをドスドスやる)

むむ、むずかしいー。戯文失礼しました。
また新たな足跡が刻まれるのをぽかぽか待ってま~す。

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Re: タイトルなし

pencilさん、はじめまして。メッセージありがとうございます。これは素晴らしいご意見です。さあ、議論を始めましょう。

pencilさんのご意見は、私の解釈を述べると、母親のお茶を入れる動作に「意味」を持たせたらどうかということ。つまり母親の気持ちを描くという理由を持たせることで母親を描くことに存在意義を持たせ、不自然さをなくす……母親にストーリーを噛ませて、その力で描く、ということで合っているでしょうか。

(もう一つの「会話のつなぎにする」というご意見はここでは触れません。よい案だと思いますし、何よりも私も同じやり方をとるだろうと思うからです。もちろんこれにも問題があります。描ききるために必要な空間が会話の中にとれるかという問題です。が、きりがなくなるのでやめておきます。ふう。)

これは非常に有効な手段だと思います。特に人の心理を書くときです。例えばこの映画で言うならば、主人公である男の内面を描いてから、また次に会話相手の友達の内面を描く、ということはたぶん不可能です。(描いてみると分かります。やってみてください。)ものを書くときには視点というものがどうしても必要で、それがあちこちに飛びすぎると文章全体が崩壊するからです。3つほどやり方は考えられますが、そのうちの一つとして、表層だけ書くというやり方をとることができます。それは気持ちを描かないというやり方です。「物」だけを見て描く。その「物」に内面の表象という役割を持たせて書くことができるでしょう。pencilさんの「意味を持たせて描く」という方法はこの場合非常に有効だと思いますし、この場合だけに限らずいろんな応用が利くだろうと思います。

これはとてもよい方法だと私は思うので、なかなか反論が難しいですし、他の方がシナリオ中、あるいは他の文章中でやられていたら、私はうなずいて通り過ぎるだろうと思います。ただ、私がシナリオを作るとき、あるいは文章を書くときにどうするかと考えると、おそらくやらないだろうと思います。勘です。では、それはなぜか考えて書いてみます。

まず考えられるのは、それが分かりやすいからです。私は人の気持ちというものはそう簡単に現れてくるものではないと考えています。だから、目で見て分かるぐらいの距離のところに気持ちを置いておきたくないのです。これは私の勝手な美意識ですから人を説得できるものではありませんが、作品全体で見てみると話は別で、美意識に合わないものは取り入れたくないという排他的な力が働きますから効果が出てきます。あるいは逆に考えて、私が何故「お茶を淹れる母親」に興味を持ったかを考えてみると、それは母親が描かれるときの全体の構造そのものに不思議な魅力を感じたからであり、母親の気持ちがそこに表れていたからではない。むしろ無表情で静かな所作に意味を見たからだと思います。

これは映画を見たのが私だけだから、非常に悪い議論ですね。ごめんなさい。

母親の何を描きたいのかを考えてみると、おそらく映画の監督はただ母親のお茶を淹れる所作が美しかったからそこを撮ったのだ、と思います。

問題は「何故母親の姿を写す必要があったのか」ということと、そのためにどのような方法をとるか(あるいは自然にとってしまうか)、ということになるだろうと考えます。「何故……」の部分は文章で書いちゃったけど、おそらく製作者の勘の支配する部分です。私の解釈では「お茶を淹れる母親」は製作者の美意識と感覚によって掘り出された部分であり、それはストーリーというよりも色彩とか味わいに関連してくるところに存在意義があると感じているので、pencilさんの意味を持たせて描くという方法よりも、むしろ突っ込まずにさらりと描いて、その自然さが(ストーリーと関係がないのに作品の世界と溶け合っているという面白さが)その描写部分の担うべき役割だろうと思うのです。

じゃあ、突っ込まずにさらりと描くにはどうするんだと言われると、そこが難しいとしか言えないのです。一番肝心な部分なんですが。悩ましいです。

映画のノベライズというものがあるけど、作家の方々はすごいなぁと思います。

pencilさんの意見には私はこう答えます。分かりにくかったらごめんなさい。

jimさん、こんにちは。意見の要約ありがとうございます。言いたかったことは、jimさんの解釈で見事に纏められています。むしろ私の舌足らずが補完されて、格段に分かりやすくなったと思います(笑)

jimさんの「母親がお茶を淹れる所作」に見出している意義が、何となく分かりました。母親のお茶を淹れる所作自体に魅力を感じた、という点。ですから、そこに余分な重みを与えずにさらりと描くのがよいと。これは、全体の装いを左右する部分になりえると。(……「美意識」の視座を概略すると、どうも味気ない印象になる気がします。「概略」は「美点」と相克するのでしょうか。)

(1) 二人の会話は重要であるため、途絶えさせてはいけない
(2) お茶を淹れる所作という善美に、余分な化粧をする必要がない

私が「お茶を淹れる動作」に意味を含ませようと思ったのは、二人の会話の流れを極力、遮らないようにするためでした。文章で同時進行を演出するためには、「台詞」と「所作の描写」が一体感をもって融合する構造が必要だと考えたのです。しかし、「所作」に「会話」と噛み合う歯車部分が与えられないとなると、今のところ二つを並走させる魔法を知りません(^q^)これは本当に可能なのか、と勘繰ってさえいます(笑)

ですから、代替案というか、「可能性」を探求してみようと思います。

可能性として提示してみたいのは、物語文章の上では【 表意 】が常に流れ去っていくけど、【 想見 】はイメージ世界の中で残照し続けているために、【 表意 】と立ち並んだり、背後に立ったり、突如目の前に現れたり、先走ったりして、いつでも共鳴を起こす用意がある、という。

【 表意 】 → 文字、文章自体がもつ意味・概念。
【 想見 】 → 表意を受けて、心頭のなかで組みあがるイマジネーション。イメージ・ヴィジョン・想定・受動的総合・共同主観性、など。

これを踏まえて一案を。物語の中ではなく、読者の中に「所作」を記述させていただくのです。【 表意 】としては書かず、【 想見 】のなかで「会話」と「所作」を並走させられないか、ということです。

◆重要な会話が始まる前に、病室の場景描写として「母親がお茶を淹れる所作」を描く。(描きたいものを描きつつ、共鳴の用意)

◆会話の間に、母親ではなくて、「二人」が「お茶を飲む」「カップを手に取る」「お茶を揺らす」などの描写で、「所作」が二人の近傍に存在していることを暗示する。(ティーカップで「所作」と共鳴させる)

◆重要な会話が終わった時点で、改めて「母親の所作」を書き加える。もしかしたら美意識の観点から外れるかも知れませんが、「後片付け」などがあると、シーン全体を「所作」で挟み込めるかもしれません。

「物語に読者が参加する」などと言いますが、これはその読者意識に依存した方法とも言えるのかもしれません。


以上が、私の提案、いや可能性の目測です。実際には読者にどう受け取られるか分かりませんし、机上の空論にすぎないかも知れません。もしかしたら、見当はずれの領分を踏み荒らしただけかも(^q^;
てっぺんがピリピリします。ふはー。

余談ですが、はじめて「美意識」という観念に、はっとする記述を読んだような気がします。jimさんのシナリオの魅力は、こうした意識が一翼を担っているのかな、などと思いました。

Re: タイトルなし

pencilさん、遅れてしまいましたが、返答させていただきます。

おっしゃるとおり、ストーリーの力を与えられない場面というのは一番描写が難しいところです。なぜなら、そこに特別な力がないと、不必要な部分として浮かび上がってしまうからです。読者の想像力を頼みにするというやり方は、とてもよいと思いますし、この場合ベストな方法だと私も思います。本当に簡単に言ってしまうと「書かないことによって描く」という方法でしょうか。これは以前の議論で出た「会話のつなぎにする」という方法をとるときのもう一つのやり方としても通用するかもしれません。

この部分が描かれるか描かれないかは文体や構造に依るところが大きいというのが今の私の考えです。作品を作る前段階で、これはこういう部分を大事にして作っていこうという指針を立てていく必要があると思います。
pencilさんの言われる方法をとるためには、あるいは他のどんな方法を立てて描いていくときにも通用することですが、その方法が作品から浮き上がっていないことが重要です。ケーキの生地と同じです。小麦粉のようにだまになっていては駄目で、なめらかに混ざり合っていることが必要なのです。例えば説明と会話で構成されていてスピードが重視された文体の中では、それは達成できないと思います。やったとしても、そこが他の部分と交じり合わずに、結局不自然な部分として残ってしまうでしょう。

さて。

ご意見を伺って、思うところがありました。

私自身は、シナリオを作っているときにはあまり読み手のことを想定してはいません。誰が読むのかと考えると、それは私自身だと考えていました。私の作ったものや書いたものを他の方が読んで、分かりにくいとか難しいとおっしゃるのは、それが原因だと思っています。あまり文章が得意ではないし、語彙も少ない。それなのに語をよそから輸入してくるのが嫌いなので、少ない元手をやりくりして文章を作っています。そういうやり方しかやったことのない人間なので、どのくらい描けば十分かということが私にとってはとても難しいのです。

文章の、あるいはストーリーの流れを見て、ここはこのぐらい書けるとか、ここは削ったほうがいいとか、ここには何か噛ませるものが欲しいということはなんとなく嗅ぎ分けられるのですが、読み手に伝わるためにどう書くかということには全く鼻が利きません。どこかで見限っている部分もあるかもしれません。人のことを考えても仕方がないから、自分の書きたいように書けばいいんだ、という考えが、あたまの片隅にあるかもしれません。

*

できればここでこんなに喋ったので、シナリオに活かして試してみたいと思っています。隙を見つけてやってみます。よ~し…。

むむむ、達見に思わず唸ってしまいました。見えていなかったことが随分たくさんあったなー、と勉強になりました。jimさんの書き物は示唆に富んでいて、読むたびに何かが閃きます。


方法とか手法というものは、表現したいものを表すためのツール、というような捉え方をしていました。ですが、そのツール自体に文体や様式との相性がある、というのはあまり考えてこなかった観点でした。手法によって浮いてしまうことがある、ということには浅薄だった気がします。

美意識の観念について聞かせてもらってから考えていましたが、部分を見詰めることが、全体を変えることが大いにあり得るのですね。「地の足」と「鳥の目」は連環する、とでも言うのでしょうか。考え方の基底に関わる領域に思えたのです。


「書かないことによって描く」と仰られていましたが、実を言えば私は、こういうスクリーンが大好きなのです。
文章を読むことに関してはわりかし鈍重なほうなので、なにかピンと来るものがないと、ほとんど頭の中に入ってきません。だからむしろ、想像力を働かせられる描き方のほうが、ずっと読みやすいし、面白いのです。

何かが欠けていたり、伏せられているほうが、ずっと読みを深化させてくれるように思えます。だからというわけではないのですが、jimさんの「目で見て分かるくらいの距離に気持ちを置いておきたくない」というのは、読む側にとっては、そうだと書き表されるよりも、ずっと面白い読み物になるような気がします。無論、そのために肝心な部分を押さえる必要はあると思いますが。

表象されるもの自体、ある程度、受け取り手に解釈を委ねると言う側面があります。ですから、自分の書きたいように書けばいいんだ、というのは案外間違っていないようにも思えます(笑)

文章が「鍵」ならば、読み手は「鍵穴」。ふたつがうまく結合したときに、「錠」がはずれて、宝箱の蓋がひらく。読み物には、そんな楽しみがありますね。「鍵」を練成する人々を心から尊敬します。


なんだか色々と考えさせられました。一人ではたぶん、思いもよらなかった考えが出てくるのですから、面白いものです。

う~む、長々と好き勝手に述べさせてもらいました。キリがなくなりそうなので、ひとまずこの辺で一閲覧者に戻ろうかと思います(笑)

拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
それではまた。日付変更線に向かって! シャッ ≡(゚∀゚)
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あまり書きたくないんですが、厄介な時代なので。
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