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資料2

:メモ:
この文章はカードワースの外でも通用するように書かれています。でも主人公の名前は#M。
 #Mは若い娘だったが、自分というものを強く持った人間だった。彼女は特別な仲間たちと宿に住み、乱暴な仕事をして大金を稼ぐ、自立した生活していた。彼女は愛想がよい性格をしていたが、芯のところでは人付き合いが嫌いで、深く付き合う人間は慎重に選んでいた。そしてそれは自分自身が人間として不十分だからだと見なしていた。しかし彼女が特別劣等感を感じていたり、自分が拒絶された人間だと見なしていたわけではない。どちらかと言えば、彼女のほうから人を避けはじめたのだった。
 #Mはその日、朝から暇だった。仕事はしっかりと壁に張り出されていたけれども、働く気になれなかった。よく知らない人と会って話を聞いたり、見知らぬ場所へ行って自分の体を試したり、そういうことをしたくなかった。
 けれども、特に憂鬱だとかそういう気分ではなくて、朝は目覚めもよく、体に不思議な活力が満ちていた。まだ霧が掛かっている早朝の街を、汗をだらだらとかいて息が切れるまで走った。街は静かで、霧の中に旗が揺れていたり、遠くの角で馬車が曲がる影が見え、それらは深いところを泳ぐ魚の影のようだった。彼女の走る足音は静かだったけれども、それ以上に街があまりにも静かなのでよく響いた。
 彼女は走っているうちにふと思い立って、途中であの場所に行って、あの老人がまだ座っていないか確かめにいった。
 老人はいなかった。
 #Mは帰って顔を洗い、服を着替えて、宿で用意された食事を食べた。
 友達に会う約束があった。それまで誰にも会いたくなかったので、部屋の掃除をしたり、体操をしたり瞑想をしてすごした。特に何も荷物はない部屋で、掃除はあっという間に済んでしまった。瞑想をしながら、時々、彼女は上着のポケットに手を滑り込ませて、ポケットの中身を吟味していた。そのせいで彼女はなかなか集中ができず、何度も体の向きを変えたり、息を吸いなおしたりするのだった。
 やがて瞑想もやめてしまった。彼女は壁に背中をつけて座って、ぼんやりと何時間も座り込んでいた。窓の下の暗闇に彼女はうずくまっていた。せまい、穴蔵のような部屋なのに、だだっ広く感じられた。特に見るものもない部屋だった。彼女は目を閉じた。じっと目の裏の暗闇を眺めていると、遠くの草原で虫たちが鳴いているように、匙男のスプーンが、ころころからからと鳴る音が聞こえた。彼女はその音に耳を澄ませていた。
 太陽がかたむきかけたころ、友達が部屋に訪れた。#Mは彼女(友達は女だ)の姿を見ると、一瞬、ぼんやりした気分を忘れた。耳の中で鳴っている音楽が止んだ。彼女は立ち上がり、友達と抱擁した。どこか食事に行こうと友達が言った。彼女は頷いた。夕飯の時間にはまだ早いけれど。



 リエスは店をぐるりと見渡した。
 料理屋の壁には薄い紙に書かれたメニューが乱雑に貼り出してあり、換気孔から入る僅かな風で揺れていた。まだ夕食には早い時間で、客は少なかった。通りを人や荷車が過ぎていく音が漣のように聞こえた。厨房では無愛想な顔つきの男が煙草をふかしながら鍋をかき混ぜていた。煙草をふかして料理するなんてどうなのかしら、と彼女は思った。灰が鍋に落ちないかな。#Mを見ると、彼女も同じように厨房の男を見ていた。
 リエスはなぜか微笑んだ。
「古い店なの?初めて来るけど」
「ううん。新しい店よ」と#Mは答えた。
「感じのいい店ね。落ち着くわ」
「狭いけど」
「そうね」
 二人は笑いあった。
「何がお勧め?」
 #Mは「ううむ」と唸った。「魚介……かな。前に食べた沼蟹はすごくおいしかった。」
「蟹?」
「そう。素揚げした沼蟹。殻ごと食べられるの。ぱりぱりしてておいしいんだよね」
「おいしそう。じゃあ、それを頼もうかな」
「いっぱい頼も。私、昼食べてなくておなかがぺこぺこなの。いもむしみたいにね」
「#Mの食欲ってすごいのよね。店まるごと食べちゃったりして」
「そんなことはないけど……でも、そんな気分」
「怖い怖い」
 リエスは水を飲んで、口を湿らせた。
「街はどう?」と#Mは友達に聞いた。「こことはずいぶん勝手が違うって聞いたけど」
「そうね」とリエスは言って、水の入ったコップを置いた。「もう慣れたわ。最初は夜も眠れなかったけど、今はよく眠れるし、仲良くしてくれる人もいるし、楽しいわ。そりゃあこの街と比べたら小さくて、あるのは巨大な大聖堂だけだから、気晴らしも少ないし。でも、いいところよ」
「休日は何をしてるの?」と#Mは訊いた。
「湖がいいところなの」とリエスは言った。「湖があるのは知ってるわよね? 磨いた鏡みたいに綺麗な湖よ。そこに葉舟を浮かべて本を読んだり、力を込めて漕いで汗を流したり。それが楽しいの」
「ええーすごい。なんだかおとぎの国みたい」
「そうね。おとぎの国みたい。でもあの街ではそれが普通なのよ」
 リエスはまだ何か話そうとしたが、途中で口を噤んだ。厨房の男が何かを大声で言ったのだ。リエスは視線をそちらに向け、#Mは体をひねって後ろを向いた。厨房の男はリエスと#Mを指差して給仕の娘に何事か命令していた。しかし給仕の娘は床をモップで拭いていて、それどころじゃないというふうに手を振るのだった。
 #Mは見るのをやめて体を元に戻した。リエスは水を飲んでいた。彼女の座っている位置からは給仕の娘と厨房の男がよく観察できたが、彼女は慎み深かったので、気がつかないふうをしていたのだった。コップを置くと、彼女はブラウスの袖を確認した。リエスは綿の綺麗なブラウスを着ていた。それはいつもどおり#Mに爽やかな印象を与えた。リエスは綺麗好きで、着ている服は質素だったが清潔を心がけており、ハンカチまで丁寧に皺が伸ばされているのだった。そのために彼女はどこへ行っても信頼された。
 ところが、綺麗な服装をしているといっても彼女は決して金持ちではなくて、生活の中でいろいろと工夫して、それを達成していた。例えば#Mに話したところでは、ハンカチの皺を伸ばすにはやかんに湯を沸かし、ハンカチに湯気をつけ、やかんの熱くなった底で押して皺の伸ばすのである。彼女は生活が好きで、細かいところをきちんとするのが好きだった。しかしどれだけきちんとしても手の届かないところがあり、それを見つけて直すことが彼女の喜びの一つになっていた。
 #Mはリエスの眩しい服を見ながら水を飲んでいた。彼女の服はぼろぼろだったが、値段で言えばリエスのものよりも高価だったかもしれない。その服は彼女を着飾ると共に、刃から守る必要があったから。やがて男は厨房から出てきて、二人のほうへやってきた。
「どうしたの?」と#Mは男に訊いた。
「茶をこぼして慌ててる」
「なるほど」とリエスが言った。
 男は彼女の方を見た。「注文は?」
「私たくさん食べそうだからリエスが先に頼んで」と#Mは言った。
「ええ」とリエスは言った。「沼蟹……だったっけ? さっき言ってた」
「ゆでるか揚げるかどっちがいい?」
「揚げたものを」
 男はうなずいた。
「あとはタマネギのサラダと、ヒラタ貝のスパゲティ」リエスは背筋を伸ばした。「以上です」
 男は#Mの方へ体を向けた。
「たまごのスープ。それからきのこのグラタン。あと、一番大きな肉の塊焼いて持ってきて」
「豚肉だが」
「それでいいです。味付けは何でも。お酒は飲む?」と、#Mはリエスに訊いた。
「止めておくわ。人に会うから」
「じゃあ、私も止めておく。お茶をください」
 男はうなずいた。
 リエスに、この男を見て笑みが浮かんできた。この人は岩みたいだなぁと彼女は思ったのだ。頬をほころばせた。
「あと、パンを」と#Mが言った。「以上です」
「時間がかかるかもしれんな」と男は言った。
「できたものから持ってきて」#Mが言った。
 男はうなずくと、厨房へ戻っていった。
 リエスは男が去ったのを確認すると、「変わった人ね」と言った。
「そう? 普通じゃない?」と#Mは言って笑った。
「変わってるって言えば#Mが一番へんかもしれないわね」
「ええ?それどういう意味よ」
「ふふ。悪い意味じゃないの。面白い人ってことよ」
 #Mは不満そうに口をむずむずさせた。「それって喜んでいいのかなぁ」
「つまらない人間っていうよりずっといいでしょう?」
「それもそうだけど……」
 リエスは面白そうに目を細めた。
「あ、また笑ってるでしょう?」と#Mは言った。「どうも面白くないのよね。玩ばれてるみたいでさ。」
「ごめんごめん」とリエスは言った。「あなたが元気そうで嬉しいのよ。ああ、健康なんだなって思って。何か悩みとかない?」
 #Mは笑って耳を掻いた。「姉さん。実は恋の悩みが」
「ないのね」
「ない」
 リエスは「ふふふ」と笑った。
「ねぇリエス。さっき人に会うって言ってたけど、誰に会うの? もう夕方だけど」
「お父さん」と彼女は言った。「会いに来る必要なんてないって父は言うけど、やっぱり心配だから。体は丈夫って話だけどどんなふうに暮らしているのかなって」
「あの人はそんなことを言うの? 会いに来なくてもいいなんて。寂しがりやな人じゃない」
「私に心配かけたくないみたい」
「そうなんだ」
 リエスは水を飲み、コップのふちを撫でた。それから「ふぅ」と息を吐いた。「このお店は本当に落ち着くわ」
「気に入った?」
 リエスはうなずいた。「不思議。なんだか前に一度来たことがあるみたい」と、リエスは言った。言ってから、くすくす笑った。
「なに?」
「いえ……」
 リエスは下を向いた。
 リエスは顔を上げた。
「いえ、やっぱり言うわ。昨日ね、本屋で男の人に声かけられたの」
「もてもて」
 #Mのひとことをリエスは微笑で無視して、続けた。
「いい身なりの人でね。世慣れた感じの、紳士……な感じの人。その人がね、私にどこどこの場所でお会いしましたよねって訊くの。私は全然覚えがなくて首を傾げてたら、ああ、違った。間違えました。知り合いの人と勘違いしてました。ごめんなさい。とてもよく似ているので。って言って帽子とって謝ったのね」
「ふむふむ」と#Mは言った。「それで?」
「それで・・・その人どこかでお茶飲みませんかって言ったのね。間違えたお詫びって。」
「それでそれで?」
「いいえ、結構です。友達と約束があるので。って言った。嘘なんだけど。そうやって言えば脱出できるかなぁと思って」
 #Mはテーブルの上に両手を乗せて、リエスの話の続きを待った。しかし、続きは無かった。「ええと……それだけ」とリエスは言った。
「う~ん。要するにリエスは可愛いってことね」#Mはにやにやした。
 リエスは赤くなった。「そういう意味で話したんじゃないけど……そう聞こえた?」
「もてもて」
 リエスは「はぁ」と溜息をついた。#Mは笑った。
「落ち込まないでよ。要するに男に絡まれて嘘ついちゃったってことでしょ?」
「うん、そう。もうびっくりして」
 #Mは笑った。そうしておいて上着のポケットに手を滑り込ませた。「人間に声かけられるのって、泥水飲まされた気分になるよね」#Mは手を戻した。「いや……飲めって言われて、目の前にカップを置かれた気分。まあ……人によるだろうけど」
「ふむ」リエスは少し考え込んでから、「そうね」と言った。
「でも、それって男の人にひどくない?」
「知り合いでもない男なんてどうでもいい」と#Mは言った。「無礼だって何だってさ。身の回りにいる人だけ優しくしてれば十分でしょ?」
 リエスはしばらく彼女の意見を吟味していた。やがて「そうね」と言った。
 思い出して二人が手を洗い、タオルで拭っていると、給仕がタマネギのサラダを持ってきた。リエスは一人で食べるのはばつが悪く感じたのか、「あなたもどう?」と#Mに言って食べるように勧めた。#Mは「それは私の頼んだ料理じゃないから」と言って断っていたけれど、結局リエスがおいしそうに食べるのを見て一緒に食べた。
 給仕は二人がフォークを代わりばんこに使っているのを見てさっと新しいフォークを出してきた。
 給仕はよく気のつく娘だった。一人で食事をしていた男が扉の鐘を鳴らし、出て行った。男は扉を開け放しにしていったので冷たい風が吹き込み、暖炉の炎が揺れた。給仕の娘はさっと移動して、扉を閉め、風の進入を防いだ。しばらくして、#Mが注文したたまごのスープをその娘が運んできた。リエスは静かな声で「ありがとう」と言った。給仕の娘は「ごゆっくり」と言って、下がった。
 #Mは給仕が出してくれたスープを飲むためのスプーンをじっと眺めて裏に表にくるくる回していた。リエスはサラダを食べながら、#Mの様子を観察していた。#Mの手の中でスプーンはカーテンの隙間のちょうど日の光のあたる場所にあって、彼女がまわすたびにきらりきらりと光るのだった。#Mはスプーンを置いた。そして上着のポケットに手を入れて、中からまた一つ、銀色のスプーンを取り出した。彼女はそれも、光の中でくるくる回転させた。
「それ、マイスプーン?」とリエスは声をかけた。
「え?」
「そのスプーン」
「ああ、これね。いつも使ってるの。最近の私のお気に入り。」
「へぇ」とリエスは言った。「あなたみたいな仕事をする人ってそういうところもこだわるのね。いつも同じ場所にしか座らない人もいるって聞くし」
 #Mはじっとスプーンに見入っていた。
「#M?」
「ん?」
「どうしたの?考え事?」
「いいえ。何にも。」
 #Mはスプーンを回しながらじっと見つめていたが、それを止め、リエスに渡した。
「見てみる?」
「ええ」
 リエスはフォークを皿に置いて、スプーンを受け取った。
 普通のスプーンだった。特に変わった加工があるとか、特別軽いとかいうことはなか った。ただ、それは変わった色をしているように見えた。銀色なのだが、うっすらと、そこに緑の膜が張っているように見えるのだ。美しい甲虫の殻のように。スプーンには、リエスの顔が反対向きに映っていた。彼女はくるりと回して、裏側に何もないことを確かめ、友達にスプーンを返した。
「普通のスプーンでしょ?」
「そうね」リエスは同意した。普通のスプーンだった。「それがいいの?」
「ええ。私のお気に入り」
 #Mはたまごのスープの皿にスプーンを沈ませた。
「どこかで買ったの? それとも、彼氏に貰ったとか」
「違うわよ」#Mは答えた。「でも、忘れちゃったな。どこかで貰ったんだと思う」
 #Mはスープを口に運んだ。
「おいしい」
「いいなぁ。おいしそう。私も頼めばよかったわ」
「一緒に食べよう」と#Mは言った。
 リエスはにっこり笑った。
「じゃあ、貰おうかな」
 二人はそれからしばらく食事を続けた。
 リエスは人の心の機微に敏感な人間だった。そういう人間にはいくつか種類がある。優しくいたわるようになる者もいれば、意地悪く人の心を踏みつけたりする者もある。面倒だと思って避け、表層的な付き合いで何事も済ませるようになる者もいる。彼女は優しい心を持っていた。#Mが何かを考えていることが分かった。しかし、それを指摘するようなことはしなかった。自然に出てくるのを注意して待った。
 #Mもまた敏感な人間だった。彼女はリエスの喋り方やしぐさや、そこに流れる雰囲気から、友達に自分が気遣われていることを悟った。それで結局「さっきの話はうそ。本当はこのスプーン、人から買ったの」と言ってしまった。このまま黙っているとばつが悪いと感じたのだ。喋りたくない秘密の話というわけでもないし、それにリエスはこの話を面白がるかもしれない。
「誰から買ったの?」とリエスは訊いた。
「匙男から」と彼女は答えた。



 じめじめした日だった。人々は皆、朝目覚めたときそれが分かった。体に不快な汗をかいていた。気温はそれほど高くなかったが、ぬるぬるとした霧が立ち込めていた。干した洗濯物も全く乾かないのだった。
 #Mはいつもどおり起床して、部屋の階下の食堂で朝食を摂った。「石パンを外に置いておいたら湿って食べやすくなるかもな」と言っている男がいた。#Mはその声がはっきり聞こえた。今朝、汗にぬれて目覚めたときから、妙に耳が冴えているような気がして、彼女はこめかみを押さえた。
 霧は、太陽が昇ると散った。しかし、湿った空気は拭い去られなかった。じとじとした空気を人々は吸い、ねばねばとした汗が彼らの肌を覆った。宿では大胆な男たちが服を脱ぎ去った半裸で歩き回って、給仕の仕事をしている宿の娘にタオルで叩かれたりしていた。
 #Mは顔を洗ったり服を着替えたりした。けれども、不快感は増す一方だった。彼女はその日、手紙を一つ出さなければならない用事があった。いつも宿に来る郵便屋には預けられない手紙だった。宿の誰かに手紙の内容を推測されるとまずいのだった。#Mが手紙を出したということを誰にも知られないほうがよい。彼女は不快な獣の吐息のように湿った空気の中を歩いて手紙を出しにいかなければならなかった。服の内側に入れた封筒が汗で湿らないかと彼女は心配した。
 長い手紙だ。昨日の晩、一晩中部屋にこもってそれを書いた。燭台の蝋燭は燃え尽きて、彼女は月明かりを頼りに筆を進めなければならなかった。階下では、いつものように、酒を飲み騒ぐ声がした。#Mは書き終わると丁寧に封筒を糊でとじて、ベッドにもぐりこんで眠った。
 彼女が呼び止められたのはその手紙を出してきた帰りだった。名前を呼ばれて、彼女はぴくりと立ち止まった。声の主は道端に座る老人だった。
 「何か買っていかないかね?」と、老人は言った。
 #Mはしばらく立ち止まったまま考えていたが、老人の所へ歩いていった。
 彼女は老人の前に立ったまま、彼を見下ろした。老人は厚手の灰色の布に包まって、道の上にじかに座っていた。その布と同じ色の布が地面にも敷かれ、さまざまなもの……ガラスのコップや魔除けや、マッチや、蝋燭などが等間隔に並んでいた。集められ売られているものには統一性がなかった。その中で一番多いのはスプーンで、大小さまざまなスプーンが老人の前にずらりと並んでいた。拾ってきた物かも、と#Mは推測した。老人は彼女に気がついてむくりと動いた。
「何か買わないかね? #M」
「あなた誰?どうして私の名前を知ってるの?」#Mはしゃがんだ。「どこかであったことがあるの?忘れていたらごめんなさい。」
「#Mだろ?」
「ええ、そうよ」
「何か買わんかね?」
 そう言って、老人は被っている布の下から手を出して、口元を拭った。その手はぶるぶると震えていた。#Mは、どうやらこの人は目が見えないらしいと思った。老人はどこか見当違いの方へ顔を向けて#Mに話しかけていたのだ。彼女の推測は当たっていた。老人は口元を拭った手を布の下に戻した。ぶるぶると震える手を押さえつけようとするような動きだった。
 #Mはしゃがんだまま、手を膝の上に置いて、老人を見極めようとじっと無遠慮に見つめていた。老人は死んだようにまるで動かず、口を利いたことが奇跡に感じられるほどだった。しばらく#Mは見つめていたけれども、無理だと思って、下を向いた。
 彼女は手を伸ばして、売られている品物を手に取った。ガラスのコップ。それほど悪くはない品。獣脂の安そうな蝋燭。それからマッチ。スプーン。獣骨のナイフはペーパーナイフだ った。彼女が品物を吟味している間、老人は物言わぬ石像のようにぴくりとも動かなかった。代金を払わずに品物を持っていってもこの老人は動かないんじゃないかと#Mは思った。
「これはいくら?」と#Mは言って、スプーンを一つ手に取った。
 老人は布の下から手を出し、#Mに向かって差し伸べた。彼女がその手にスプーンを握らせると、震えながら老人はそれを確認し、値段が銀貨1枚であることを告げた。
「安いね。はい、銀貨1枚」
 彼女は老人の手をとって、その中に銀貨を一枚、握らせた。老人の手は燃えるように熱かった。掴んでいる彼女の手が熱で焼けるような気がした。彼女は不快に思い、すぐに手を離した。
 老人は、右手に銀貨を左手にスプーンを握り締めていた。#Mは代金を渡したスプーンを老人が渡すのを待ったけれど、彼は動かなかった。
 変な爺さん、と#Mは思った。スプーンを路上で売っているなんて。『匙男だ』と彼女は思った。リエスなら面白がるだろうな、と#Mは友達のことを思い浮かべた。リエスというのは友達の名前だった。変な人が好きな可愛いリエス。サーカスの道化や神がかり行者が好きでそして#Mのことも好きなのだった。
 前触れもなく雨が降り始めた。
 #Mは空を見上げた。落ちてきたしずくが頬を伝った。熱かった。ぱらぱらと落ちてきた雨はすぐに勢いを増し、石畳を黒く濡らしはじめた。通りを歩く人々は、小走りに走り始め、あるいは軒下に身を寄せて雨をよけようとした。しずくは大きく、道の上で、屋根で、音を立てて跳ねた。匙男の被っている布は水を吸って黒い染みが広がった。
 #Mの周りでは、スプーンが一つこおんと音を立てて揺れた。空から降り下りてくる雨の雫がスプーンの先に当たり、その音色を立てたのだ。勢いを増した雨は次々にスプーンの上に降りかかり、音を鳴らし始めた。大小さまざまなスプーンはさまざまな音を、雨の中で壊れたオルゴールのように鳴らした。そのたびにスプーンはびくりと跳ね、音を響かせながらふらふらと揺れるのだった。
 #Mは老人から離れ、近くの軒下に避難した。匙男は、雨が降っても、何も変わらず、やはり石像のように路上に座っていた。ただ、老人が被っている布は雨を吸い、彼の体にぴったりとくっついていった。蝋燭はたぶん使い物にならなくなったろうし、ガラスのコップには水が溜まり始めていた。
 #Mは別にスプーンが欲しかったわけでもなく、ただ老人に興味が湧いただけだった。彼女はくるりと後ろを向くと、そのまま宿に帰った。軒を伝って歩いているうちに、別の考えが、彼女の頭には浮かび、匙男のことは忘れてしまった。宿にたどり着くとすぐに体を洗い、服を着替え、ベッドに横になると、眠ってしまった。そのまま朝まで、昏々と眠った。



 次の日、#Mは暇で、時間をもてあまし、街の中をぶらぶら歩いていた。そしてまた同じ場所で匙男が品物を並べて商売をしているのを見つけた。#Mが気まぐれに昨日のようにしゃがみこむと、匙男はむくりと体を動かし、手を出して、スプーンを一つ、#Mへと差し出した。
「くれるの?」
 彼女はスプーンを受け取った。
「忘れ物だよ」
「ええ、そうね」と彼女は言った。「今日も何か、買って行こうかな」
 匙男は布に包まったまま、顔を横に振った。それから、自分の横の地面を叩いた。座れってことだろうか、と彼女は考えた。彼はもう一度、ゆっくり地面を叩いた。#Mは匙男に従って座った。別にやることもないのだ。どこかへいかなければならないわけでもなく、何かぜひともしたいことがあるわけでもない。
 #Mはお腹がすくまで、座って、彼を観察していた。匙男は彼女を座らせると、もうその存在を忘れてしまったようで、また何にも言わずにじっと座っているのだった。太陽は最近の天候には珍しく陽気に街を照らし、石畳を暖め、#Mは何もしてなくても暑いくらいだった。彼女は老人の横から通りの壁側に少し退いて、軒下の陰に隠れた。そこで座って、奇妙なスプーン売りを観察していた。
 はす向かいの家の裏口に水筒を飲んで座っている男がいて、その男もこのスプーン売りを観察していた。が、彼はいくらか時間が経つと、飽きてしまったのか、どこかへふらふらと歩き去った。人通りは少なかった。もともとにぎやかな場所ではないのだ。人々はみな何かを抱えているらしく、足早に通り過ぎていくのだった。
「ねえ!」と彼女は言った。
「どうしてこんなところで座ってるの?」
「向こうの大きな通りにいけばいいじゃない」
 老人は答えなかったし、僅かも動かなかった。
 彼女はまた観察を続けた。
 通りを風が通り抜け、#Mが涼しいなぁと思っていると、匙男は人の名前を読んだ。匙男が呼び止めたのは若い男だった。彼は自分の名を呼ばれて#Mと同じように驚いた。若い男は老人に銀貨を投げてやった。乞食だと思ったのだ。男は、#Mをちらりと見て、それから歩いていってしまった。
 彼女が見ている前で、十人ほどの街行く人間を、匙男は名前を言って呼び止めた。匙男は決して名前を間違えなかったし、とするとつまり、あてずっぽうに呼んでいるわけではない。彼女にはいったいどうやって匙男が人々の名前を知るのか、見当もつかなかった。からくりがあるのかどうか、それは分からなかったが、匙男が名前を呼びかけるのを見ると、なぜか面白かった。まるで石を投げて的に当てているようにみえて、それが痛快なのだった。
 名前を呼ばれた人々の中には、不気味に思って、遠巻きにしたり、駆け足で逃げたりするものもいた。彼らにとっては、よく分からない乞食の爺さんに話しかけられたわけで、不快に思うのが当然といえた。しかし#Mはただ「面白いなぁ」とか「変なじいさんだなぁ」とか思うのだった。
「どうしてそんなことができるの?」と、彼女は声をかけた。返答してくれるとは思わなかったけれど。しかし、彼女の言葉に耳を向けるように老人はゆっくりと動いた。
「どうして、みんなの名前が分かるの?」と彼女はもう一度訊いてみた。
「訓練だ」
「訓練? どんな訓練?」
「占いの訓練だ」と老人は言った。「人間は訓練すれば、何でもできる。わしにもできるし、お前にもできる」
 #Mはまぶたの端を小指で掻いた。「訓練か」と#Mは思った。「訓練ね」
 匙男は黙って、着ている布を体に引き寄せ、座りなおした。もう話すことは無い、という意味だった。
 #Mはスプーンを出して眺めた。ひっくり返して眺め、またひっくり返して眺めた。スプーンには細かい傷がいくつかあったが、彼女の顔や、後ろの壁を、歪め、写すには十分だった。スプーンをこんなふうに眺めたことがあったかな、と彼女は思った。ない。へこんだ部分を覗くと彼女の顔はひっくり返って平べったくなり、反対にふくらんだ部分を覗くと彼女の顔は細くひょろろっとするのだった。
 そうやって眺めていると、ぐぅと腹の虫が鳴った。それで自分が腹が減っていることに気がついた。彼女はスプーンをポケットに納め、立ち上がった。
「じゃあね」
 老人はかすかに動き、うなずいた。
 彼女は昼食を摂りにいった。



 #Mはそれからいくつか仕事をした。街の外へは出なかった。選んで街の中の仕事をした。彼女はあのとき買ったスプーンをポケットに忍ばせていた。食事をするときには他のスプーンを避けて新しい彼女のスプーンで食事をした。そうすると心がなんだか落ち着くような気持ちがするのだった。「故郷にいるみたいに感じるの」と彼女は仲間に説明していた。分かるような気がするという者もいたし、分からないという者もいた。しかし、どちらの者も、彼女がどんなふうに食事をしようが、彼女がそれで幸せそうだったので、別に言うことはないのだった。同業者の中には、例えば誰かの命日に赤い靴下を履くと怪我をするだとか、つるぎの柄に巻いた紐は切れたら結ばずに取り替えたほうがいいとか、そういうジンクスを持っている人間がかなりの人数いて、彼女のスプーンもそれと同じようなものだと、彼らは考えたのだった。
 仕事がなく暇になると、彼女はあの奇妙な匙売りの老人の所へ行った。そして時間があるなら、後ろに座ってぼんやり眺めていた。何故そんなことをするのか、自分でもよく分からなかったが、訓練をして瞑想をして、そして時間が余ると、老人に会いに行くのだった。
 老人は、ずっと路上に座っていた。彼女が去るときも彼女が来るときも、いつも同じ姿勢で座っていた。それはマントラの苦行をする修道士みたいに見えた。彼は偶に彼女に喋ってくれた。が、ほとんどが支離滅裂な、彼女には意味のよく分からない話なのだった。彼は自分のことを「占い師だ」と答えた。またあるときは「銀細工師だ」と答えた。彼は、全てのものには名前があると言った。人にも名前があり、岩にも名前がある。しかし太古に一つ強い風が吹いたので、その名前は個々のものから引き離され、遠くの土地まで吹き流されてしまった。その名前を知れば、お前も占いができると彼は言うのだった。どうすればその名前が分かるのかと、彼女はもちろん訊いた。老人は答えた。しかし彼女には、理解できなかった。彼が言うのは決まって一言「訓練だ」というものだったからだ。
 また、彼女には分からないことがもう一つあった。それは匙男が何を食って生きているのかということだ。人間は食わなければ生きていられないし、空腹は不快だ。だから働くのだ。しかし匙男は一日中座ってぼんやりしているように見える。もちろん彼女は働かなければならなくて彼を終日観察できる日は限られていたけれども、それができる日には注意深く観察して、彼が何も口にしないのを確かめていた。夜中にこっそり食べているかもしれない。道端に生えている草とかその辺にいる虫とか。いずれにしても、彼女には分からないことが多かった。
 暇になると#Mが街に出かけることを、仲間はもちろん知っていた。彼女は自分からそれについて喋らなかったが、別に隠すようなことではないので、仲間にいつも街に何をしに行くんだと訊かれると、彼女は正直に何もかも喋っていた。仲間は面白がってついてきたことがあった。しかし、仲間たちは彼女のようにじっとしていることに慣れなくて飽きてきてしまい、ほんの数分いただけでさっさとどこかに遊びに行ってしまった。
 分かったことがある。道端にずっと座っていることは、かなり気分がいいということだった。彼女はそれが気に入った。固いごつごつした石畳の上でもずっと座っていられた。何も考えずにぼんやり座っているだけで、青い空を雲が流れていくように時間が過ぎていくのだった。野の花はこんな気持ちなのかなと、彼女は思った。
 あるとき、匙売りから少し離れて座っていたら、男が一人歩いてきて、彼女に声をかけた。
「こんなところで何してる?」と彼は言った。





 彼女は男を見上げた。普通の男だった。特に特徴のない普通の服を着て、普通に髪を短く刈り込んでいた。
「特に何もしてません。あの人を見てるんです」と彼女は答えた。
「食事はしたのかい? 僕が何か食べさせてあげる」と彼は言った。
 彼女はなんだか不快に思った。何かが体の中でむくりと動いたのが分かった。何で私が人に食事を食べさせてもらわなければならない? この男は私に何をしたいんだろう?
「食事はしました」と彼女は言った。「ただ座っているだけなんです」
 男はそれを聞くとにっこり笑った。
「それはちゃんとした食事かな?」と男は言った。
 彼女はだんだん腹が立ってきた。ちゃんとした食事! 彼女は立ち上がった。
「あんた何なの? あっちへ行ってよ」と彼女は言った。
 男は「おいおい何だよ」と言うように腕を広げた。
 彼女はいっそのこと持っている武器で思いっきり衝いてやろうと思ったけれども、ぐっとこらえた。彼女は男から離れ、匙売りのほうへ歩いていって彼の後ろに座った。男はその場で立って、こちらを見ていたが、やがて歩いていってしまった。男は去った。しかし、男に腹が立った嫌な気分は、まだ彼女の体の中にあって、去らなかった。ぬるぬるした熱い泥をたくさん飲んでしまったような気持ちがした。
 彼女は建物の影に膝を抱えて座って、不快な気持ちに耐えていた。思い出して水筒のぬるい水を飲んでみると、少し落ち着いた。落ち着いたが、なくなるということはなかった。
 あの男は、私のことを乞食の娘か何かのように思って声をかけたのだろうか? たぶん、そうだろう。そんなにひどい身なりをしていたかな、と彼女は考えた。地べたに座っていたからだ。昼間から何もせずに地べたに座っている娘なら、金がなくて困っていると思われたって仕方がないのかもしれない。彼女はじっと膝を抱えて、言葉を並べて考えをめぐらしていたが、やがて言葉は角砂糖のように溶けて、最後にはただ不快感の泥水が渦を巻いているばかりだった。
「どうした?」
「なんでもない」
 匙男はもぞもぞと動いた。
 #Mはポケットからスプーンを取り出し、眺めた。首を持ってくるくると回し、そこに映し出される色を見た。彼女は溜息をついた。荷車を引く馬車が通りを横切った。荷車は石畳で跳ね、苦しげに軋んできいきいと甲高い音を立てた。#Mの持つスプーンには荷車が映り、そして通り過ぎていった。
 匙男は#Mに声をかけた。
「何?」と彼女はスプーンを見ながら答えた。
「お前は狼を知っているか?」
「狼?」彼女は顔を上げた。「狼なら知ってる」
「お前に似ている」と匙男は言った。「利口で、切れる本能を持っている。神経質で、臆病なのに、それにも増して勇敢だ。だが、勇敢であることに何の価値も見出していない」
 彼女はよく分からなかったので、黙っていた。
「昔狼の子供を飼った」と匙男は言った。そして布の下から震える手を出し、口元を拭った。「狼の巣から盗んできた狼の幼子だ。名前をつけて、わしが育てた。餌には山鳥の肉をやった。1年で大きくなった」
 匙男は手を布の下にしまった。
「犬とは違う。わしの様子をいつも伺っている。どれだけ腹が減っていても、その肉が食えるかどうか用心して見ている。歩くときには音を立てない。そしてどれだけ走っても疲れない。群れていても孤独だ。なにより野生の敏感さを持っている」
 #Mはスプーンから目を離し、匙男を見つめた。
「狼はわしに慣れ、わしの猟犬としてわしの傍にいた。だが、ある晩、その晩は狼のよく吠える晩で、そいつはわしの言うことを訊かずに出て行った。わしの親指を噛み千切っていった」
 #Mは注意して匙男の言葉を聴いていた。彼がこんなに喋るのは初めてだった。いつものように意味のないおしゃべりかもしれないとも彼女は考えたが、匙男のはっきりした喋り口が彼女の興味を引いた。#Mはスプーンをポケットに収めて、膝を抱えなおした。
「お前も狼と同じだ」と匙男は言った。「最後は野生を取り戻して、人々の間から出て行くだろう。なぜならお前は人から出たものではなく、野生のものだからだ。お前は月のない晩に生まれた子供だ。月のない晩には狼に呼ばれて出て行く。そうしたらもう戻ってこられない。それを恐れている。自分が人でなくなるのが、お前は怖い」
 #Mは黙っていた。
「お前の中の野性の名前を、わしは知っている。わしの中の野生も名前がある。どの人間にも野性の名前がある。気高い名前だ。しかし、皆忘れている。自分たちの本当の名前をな」
 匙男は布をゆっくりと被りなおした。
「へぇ」と#Mは言い、下を向いた。「私は私よ。野生の私なんて冗談じゃないわ。私は自分自身を見失ったりしないもの」
「どうかな?」と匙男は言った。
#Mは驚いて、顔を上げた。「どうかな?」なんて匙男が言うところ初めて見た。


 彼女はあるとき、匙男がスプーンを振っているのを見た。彼はスプーンを石にあてて、音を立てていた。ガラスのコップにスプーンを入れて振り、からからと音を立て、両手にスプーンを挟んで持ち、不思議なリズムでそれを叩いた。彼がスプーンで自分の望む音を鳴らすことができるのを彼女は見て取った。大きなスプーンは太く、小さなスプーンは甲高く鳴り、匙男はそれらすべてを手中に収め、操って、完璧に鳴らしていた。草原の虫の声のように音の一つ一つが重なり合い、交じり合って、複雑なメロディを奏でていた。
 それは音楽だった。奇妙な音楽。太古に森に住む人々が食った動物の骨で鳴らすような音楽だった。その音楽の中で人々は跳ねて弾けて、しなやかな体を伸ばし、心は体の欲求と溶け合って、自由を感じるのだ。彼女は座ってそれを見ていた。匙男の奏でる音楽を聴いていた。聞きつけた街を行く人々は立ち止まって、匙男の音楽に聞き入った。野次を飛ばす者や、ひそひそ声で喋る者や、自分でリズムを取っている者や、金を投げる者もいた。彼らは匙男の芸を楽しんだ。しかし匙男は熱心にスプーンをかき鳴らし、人々が聞いていることに何の関心もないようだった。研究室の学者のように彼は音を調べ、次のスプーンを手に取るのだった。 
 雨が降っても、匙男は演奏をやめようとしなかった。人々は散っていった。雨にぬれてまで見るほどの芸なんて存在しないのだ。雨は滝のように降り、雷が空で唸った。雨粒は大きく、石畳に当たってぱちんと音を立ててはじけた。匙男のガラスのコップは雨をうけて水がひっきりなしに飛び散り、不規則にぱちゃぱちゃと音を立てた。置いているスプーンは奇妙な音で鳴り、匙男の持つスプーンは悲しげに響くのだった。
 Mは軒下に隠れて、匙男を見ていた。雨はひどく、地面ではじけた雫が軒下にまで飛んできていた。カーテンのように雨は彼女の前に垂れ下がって、匙男の後姿をけぶらせていた。ぼんやりとしたシルエットと、雨音で消されて僅かに聞こえてくるスプーンの響きだけが、彼女には聞こえた。彼女は自分のスプーンを持って、無意識にくるくる回していた。壁をスプーンで叩いてみた。スプーンは不安定な音で鳴った。



 次の日、彼女はまた匙男のところへ行ってみた。彼はいなかった。次の日も、その次の日も彼女は匙男が座っていた通りへ足を向けた。しかし彼の姿はどこにも見当たらなかった。人に聞いて回ったりもしたが、だれも匙男のことを知るものはいなかった。匙男は消えてしまった。夜のうちに門から出て行ったのだろう。彼女はそう考えた。そしてポケットに手を入れ、スプーンがあることを確認した。



 リエスは#Mが珍しく饒舌に語るのを注意深く耳を傾けていた。リエスがあんまり熱心に聴いているので、#Mはグラタンを食べながら、なんだか彼女が滑稽に見えたほどだった。けれども、話が進むにつれて#Mはリエスに語っているということを忘れて、記憶の中を彷徨うことに集中していった。その調子で最後まで語り終えてしまうと、#Mは肉を切り分けにかかった。巨大な豚の焼肉。彼女は腹が減っていた。
「奇妙な話だ」とリエスは感じた。そして何よりも「怖ろしい」そう感じた。それは彼女が小さいころに聞いた夕暮れに現れる人攫いとか、深い枯れた森の奥に住む狡猾な魔女とか、そういったものを連想させた。そしてリエスは、彼女の友達がその匙男の言うとおり『人から出たものではなく、野生のものだ』ということを承知していた。#Mが泥と血にまみれて、彼女の仲間たちと街をとぼとぼ歩いていたり、狂った獣のような目をして宿から出てきたりするのをリエスは見た。また、人から伝え聞く彼女についての信じられないような噂も一度となく耳にした。そのたびに、いったいこの娘のどこに、そのような暴力への指向が潜んでいるのだろうと、不思議に思うのだった。
 リエスはお茶を飲んだ。肉がするすると友達の口の中に吸い込まれていくのを見、感じのいい唇がもごもごと動くのを見ながら、彼女は匙男のことを考えていた。#Mは山のようだった一塊の肉をぺろりと平らげてしまった。お腹がいっぱいだと宣言した。#Mは唇についた肉の脂をナフキンで拭って、「これからお父さんに会いに行くの?」とリエスに聞いた。
「ええ」とリエスは言った。「あなたも人に会うんでしょ?」
「そうだったっけ?」
「言ってなかった? 忘れちゃった」
 二人は席を立った。店は夕食を摂りに来た客でにぎわいはじめていた。一人しかいなかったはずの給仕はいつの間にか二人に増えていた。代金を払い、店を出た。街はもう日が暮れていて、空は青さが引き星が輝き始めていた。たくさんある窓のいくつかからは明るい光が漏れていた。#Mの帰る宿とリエスの父が住んでいる家の方角は同じだったので、二人は並んで歩きながら、サーカスを見に行く約束をしたり、街に新しくできた店の噂を喋ったりしていた。
 #Mは途中で角を曲がり、人通りの少ない路地に向かった。リエスはついて行った。一人歩きだったら決して入りたくない暗い道だったが、力強い友達が一緒だったから、さほど心配はしなかった。#Mは立ち止まった。そして、リエスのほうへ振り返った。
「ここよ」と彼女は言った。
「ここ?」
「匙男が座っていた場所。あなたに話した、変な爺さん」
 そう友達に言うと、#Mは物思いに沈んだ。
 匙男はいったいどこへ行ってしまったのだろう。匙男。奇妙な占い師。銀細工師。音楽家。私はわけも分からず彼からスプーンを買った。私の本当の名前、彼の言う、気高い野生の名前というのはいったい何なんだろうか。それを知ったら、何かが変わるのだろうか。
 彼女は友達を見た。リエスは爪を噛んでいた。それは彼女が直そうとしている癖の一つだった。不安になると彼女は爪を噛むのだ。
「暗いところね」と彼女は言った。「本当に、暗い」
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